“文学少女”と死にたがりの道化 - 野村美月

元"文学美少女"の僕は、二度と小説を書くまいと誓ったのに何故か高校の文芸部に所属していたりする。
部員はたった二人。一人は僕。もう一人は……本物の"文学少女"の遠子先輩だ。
遠子先輩は、文字通り”食べちゃいたいくらい”本が大好きな女の子だ。絶対妖怪だと思うんだけど、本人は否定。
ある日、いつものように先輩用の”おやつ”の文章を書きなぐっていると、ラブレターの代筆をお願いしたいという女の子が現れ……





何を語るよりも先に、まずタイトルだ。いい。素晴らしい。これだけで80点くらい付けてしまうぐらいナイスな文字列。
文学少女ではない。“文学少女”だ。ダブルクォーテーションで囲んでいる辺りが意味深さを漂わせている。“文学少女”は誰なのかと言うとやはり作中で何度も自称と他称をしている遠子先輩なのだろうが、同時に主人公心葉のことも指している。これは単に主人公が“かつて”文学少女だったからというだけではなく、現在、あるいはかつての心葉と遠子先輩との存在の二重性、あるいは同一性にも絡んでくることが理由なのだと確信しているのだがこれは後述。
そして「死にたがりの道化」。何ということだ。あの“天然系ライトノベル作家”の野村美月アイロニーを使っている!作中、確かに道化たちは揃いも揃って死にたがる。誤解を恐れず一読した感想で言うとしたら、どの道化も悲壮感たっぷりだが、しかしこの世の苦行からの安逸な解脱を図ろうとしてばかりの、救いがたい業を背負っている人間とは思えない道化たちである。文章力の問題もあろうが、とかく“死にたがる”印象しかない。しかし狙っているかは分からないが、そういった道化たちを指して“死にたがり”と一括しているタイトルは、登場人物たちをとことん客観的に、超越的に捕らえた証として“死にたがり”と称しているのだ。そこには登場人物たちを作者の手から離して自由に作品という箱庭の中で動かし、それを観察するという洞察者としての作家性が見える。単に事実として死にたがっているだけではなく、道化たちは安逸に死にたがっていると、“死にたがり”と皮肉っているのだ!登場人物たちと作家性…というか作者本人が同一視されていた「卓球〜」シリーズの作者とは思えないほど冷徹な視点だ。
「○○と××」というドラえもん長編映画方式(のび太と〜)の構造だが、これがとある意図的なものかそうでないかはまだ不明。続刊が待たれる。


というのはまあ、妄想交じりの与太話として。これがもし編集部あるいは編集者がつけたタイトルだとしたら泣く。


野村美月。「赤城山卓球場に歌声は響く」(卓球シリーズ)、「うさ恋」などでそれなりの評価を得ている作者である。この作者は、と言っても私は卓球シリーズしか読んでいないが、いわゆる天然系の文章を書くことで有名で、文章は稚拙、設定も支離滅裂、萌えも微塵も理解していない。しかし作者の思いのたけがぶちまけられた文章は、読む人を挽きつけてやまない魅力を持つ。登場人物と作者と読者の三位一体感*1が味わえる貴重な一冊として、ライトノベルから離れていた私を見事にこの界隈に戻してくれた作品であった。

さてこの「“文学少女”と死にたがりの道化」だが、とても同一人物が書いたとは思えないほど“普通の物語”である。普通というのは物語の構造であるとか、キャストであるとか、格別奇をてらっているわけではない。

ちゃんと“秘密抱えています”高校生男子の気弱で優しい主人公。ちゃんと“謎がありそう”Aカップ先輩電波ヒロイン。ツンデレ同級生。お嬢様。かわいい後輩。キャストはステレオタイプばかりとは言え、感情移入が容易く動かすのも簡単だと思われる人物ばかりである。別の言い方をすれば、当たり障りのない…一定の人気は保障されるようなキャラクターとも言える。
ミステリーはあまり読んだことがないため一概にそうとは言えないかもしれないが、物語の構造も「読者へのミスリードからの真相の二転三転」という至極オーソドックスな様を呈している。それはキャラクターたちを普通の文章で普通に動かそうとした結果と相まって、この作者とは思えないライトノベルな文章を見せてくれる。


しかし、今まで天然で突っ走ってきた作者がここにきて普通の物語を書こうとすると。
この人の作品だけにあるノリや勢いに任せて読者を引っ張ることをやめた結果、同系の他の作品と同じ敷居に立つわけであり、そうなれば自然と作品の比較対象は広くなる。*2


そういった比較をした場合、残念ながら本作品はそれほど面白みのある物語とは言えない。

ヒントを見せないミスリード、不自然に饒舌な“真犯人”、ご都合が過ぎるシチュエーション、揃いも揃って同じ“作者の価値観”で動くキャラクターたち、設定が全く生かされていない、とどこをどう直せば面白くなるかが分かるような欠点がいくらでも並べられる。これは一言、作者がミステリーにこなれていないという事で片付けられるかもしれないが、お世辞にも「面白い!」と膝を叩くことは出来ない。練りが全く足りない。


しかし私の場合は、どちらかと言えば肩透かしという印象が強い。

  • “抑えていたアレが起きる”というセリフ、主人公と瓜二つの誰かさん。過去と現在の謎の繋がり。
  • 遠子先輩は“元文学少女”の主人公の“文学少女”のまま成長した姿ではないのか?主人公、アレが起きたら女の子になるんじゃないの?

  • 遠子先輩は本を食べて味わうというファンタジー少女*3ながらも人外の者である様子はない。超越的な力が存在しない世界なのに、唯一人だけ存在するファンタジー
  • つまり遠くない未来、主人公が再び小説を書き始めその小説が本作品そのものであり、遠子先輩は実在の人物ではなく、物語の狂言回し的存在として主人公は登場させたのではないか?(異常と正常が(説明無しに)混在した現実世界を、世界の住人達がなんの違和感もなく過ごしているということは、その物語構造そのものが何者(作者以外。例えば登場人物とか。)かの介入を受けている・何者かに作られた世界というパターンが多い)

などのように、読みはじめてからすぐにメタフィジカルな深読みをしていたため、真相が明らかになったときは大きく肩透かしをくらった。これがシリーズものだと知ったときは肩が落ちた。魅力的な謎は多く散らばっているが、どれもこれもが続編への単なる伏線(とも言えない。ただの設定)で終わっている。この作品だけで完結する物語と、シリーズの中の一作品としての物語の要素のバランスがあまりとれていないのだ。明らかに三角関係に突入しそうなツンデレ同級生が顔見せ程度で終わったのは、あまりにもあざとすぎて唖然とした。


とまあ、割りとボロボロな印象を受けた作品だが、本書の重要な要素として太宰治の「人間失格」が挙げられる。
本書は「人間失格」のセリフを引用したり、登場キャラクターが「人間失格」のキャラクターの行動をなぞったり、そもそも作品中に何度も「太宰大好き!」という作者の主張が存分に表れている。引用や行動に留まらず、どうして作者が「人間失格」を、太宰を好きなのかをガンガンキャラクターに言わせている。そう、この作者の卓球シリーズにあった「私はこれが大好き!」というに想いが文章に表れるという構造が―好きで好きでたまらない!という感情が相変わらず文章にほとばしっているのだ。私は太宰の文章を精々「走れメロス」くらいしか読んだことないためこの辺りに全く言及できないのがつらいが、「人間失格」を読んだら再読してみようと思う。人間失格の既読者であれば、また違った感想を抱くだろう。いずれにせよ、作者のスタイルというものがしっかりと貫かれているというのは嬉しい限り。


こんなにダラダラと文章を書いているのも、野村美月のファンであるとか、謎が非常に多く散りばめられている(と勝手に思っているだけかもしれない)ためとか、大きく肩透かしをくらったなど様々理由ありだが、やはり「本当に惜しい」という悔しさが一番だろう。もしこれがこれ一冊で完結していれば、ミステリの質がしっかりとしていれば…思うことはいくらでもある。


これを読んで、「人間失格」を読みたくなった。
人に何かしらの強い影響を与えるということは、やはり物語の一つの価値*4ではなかろうか。それが負の感情だとしても。
心葉クンと遠子先輩の前途に幸あれ!


50点。

*1:とか言うと笑われそうだが。

*2:今までが比較できなかっただけだとも言えるが。

*3:「食べるちゃうくらい好き」というメタファーが面白い。

*4:かなり限定的な言い方ではある