死して咲く花、実のある夢 - 神林長平

死して咲く花、実のある夢 (ハヤカワ文庫JA)

死して咲く花、実のある夢 (ハヤカワ文庫JA)

死とは何か?という古今東西老若男女誰しもが一度は思う疑問に対して、明確で論理的な回答は数あれど、その本質に迫るとなると宗教的な匂いが漂い始めるのが世の常である。科学で(現時点では)解明できず、誰もが恐怖するこの宿命は、人々の想像と推測の渦中にしかない。
神林長平は当作品で、その疑問に実に明朗な答えを導き出している。

「死とは、コミュニケーションが不能になることだ」

この場合、コミュニケーションとは「あの世に行った者と生きている者との間で、一切の情報のやり取りが出来ない」という意味を指す。これは実は高度なメタ的仕掛けに繋がり、神林長平作品には死者との対話を行っているような描写の作品はない。死者に見える者も、この世に未練がある意思体という解釈をすれば、あの世に行った死者の描写がない、すなわちこの世界にいる“読者”の目にその死者は写らない、つまりコミュニケーションが不可能であるということに繋がる。
同時に作者は「あの世」を肯定していることにも繋がるが、それこそ「コミュニケーション不可能」なため、想像に任せたあの世の描写を一切行っていない。“科学は無用に実体を増やすべからず”だ。

当作品は思弁的内容が多い神林長平作品の中でも、その直感的理解のし難さでは最右翼作品と言えるかもしれない。三人の脳天気でユーモラスな戦車兵たちが一貫した意思に基づく行動を取ってくれたからこそ物語に筋が生まれたわけで、例えばこれが戦闘妖精雪風の主人公零の様なイジイジルイージなキャラクターの口から語られた物語だとしたら、物語は乱麻の様を呈するに違いない。
何が現実なのか、仮想なのか、最後の最後まで読者の頭を混乱させ続ける物語だ。覚めない悪夢、覚めても夢という物語構造は、物語的決着を見せるためにはその最後に元となる世界の描写を行うというものは、同作者の「Uの世界」に出てきたようにそれなりに常套手段だが、この物語の場合はその基底となる世界が見えない。
冒頭から結末まで、何が仮想なのか、現実なのか。しかしそれでいたずらに読者を混乱させるという意図は、実は作者には無い。
何故ならそのような状況に放り出されたキャラクター、読者、そして時には作者(!)に対して、神林長平はこの20年間常に言い続けてきた言葉があるからだ。

「現実だろうが、夢だろうが、今いて感じ記憶するこの世界があるならば、それが自分にとっての現実だ。」


75点。